近況など

今年ももう2か月余りとなってしまう。ここへの記事も、今日は書こう今日こそ書いておかねばと思いながら結局書かずじまいなことが多くなってしまった。ベツに誰も私の日常などに興味を持ってはいないのだろうが書いておくと後で便利なこともあるので、ここ2年ばかりの出来事をおさらいしておこうと思う。

去年の4月から、とある公的機関で仕事をしている。昨年の春に急に前職を退く決断をしたため早々に次の仕事を見つける必要があり、当時は希望に合う仕事がなかったので、とりあえずのつもりで勤め始めた。半年ごとの臨時職員、長くて一年という募集だったのだが、行きがかり上、半年もしない内に嘱託となり今日に至っている。また、この勤めと同時進行で月1〜2回、とある公的な会議の委員もする羽目になったのだが、今年6月の夕方にそこの駐車場で転倒して前歯を折り唇も切った。幸い折れた前歯がその場で見つかったので歯は間もなく元通りになったのだが、倒れた時に右手をついてしまい、少し前まではちゃんと手が上がらなかったり違和感があった。今はほぼ元通りなのでまぁ不幸中の幸いというところだが、やはり転倒には今後も細心の注意をしなければならない。打ちどころが悪ければ寝たきりということもあり得るのだ。

トシをとるといいことないわ…と思うことも多いが、どっこいお得なことも結構ある。例えば、勤め始めた頃は車で市内まで行って月極駐車場に車を止め、市電に乗り換えて職場近くまで歩くということで駐車代込みで毎月2万ぐらいかかっていた交通費が、今年の誕生日以降は電車もバスもオールフリーで月6千円弱ぐらいで済むようになったのだ。これで有名な温泉地だろうと登山口だろうと魚の美味しい港町だろうとかなり遠くまで行けるので、休日ごとに「今度はどこへ行こうか」とワクワクだ。でもま、実際にはなんだかんだと家の用事があったり気候に左右されたりで、あまりどこにも行っていないんだけど。

交通費が安くなったこと以上に嬉しいのは、電車に乗っている間に本が読めることだ。それまでは車の中でラジオ番組を聴くぐらいで、ま、それはそれでタメになったり楽しかったりもしたのだけれど、読書の楽しみはまた格別だ。読書に飽きたらスマホの語学アプリで単語憶えたりして通勤時間が充実しまくりである。今年読んだ本の一つが、元FBI心理分析官の手記もの「カイラクさつじんの心理」で、これはやはり以前書いたように「もと少年えー」の手記を読んだ影響もある。そういえばハルさんの主演したテレビドラマ「りょうき犯罪そうさ官・トウドウひなこ」も、初回を見てから原作のシリーズを全部読んでみたのだが、あの作者ももと少年えーの手記「舌禍」を読んだことは確実と思われる。そして、どーにかならんのかと思った結果、どーにもならないからあのようなSFチックな話にせざるを得なかったのだと思うが、そこは少し残念でもあった。とは言え、じゃあ他にどんな結論があるのかと問われても分からないのだけれど。「時計じかけのオレンジ」をもホーフツとしたなぁ。

「舌禍」を読んで(あくまでそこに書かれていることがフィクションではなく、少なくとも彼にとっては「真実」だとすればの話だが)あぁやはり…と感じたのは、いわゆる矯正教育や犯罪心理学の限界というか「やっぱり他人に本当のことなんて言うワケないわな」ということだった。えーの場合、子供の頃の偶然の性的体験が様々な要素と結びついてカイラクさつじんに向かってしまったとも言えるのだから尚更だ。その点は、非常に気の毒というか、元凶はリビドーというどーにもできないものなのだなぁ…という感慨を抱かずにはいられなかった。そして、それがカイカンに繋がっている以上、たった数年で「矯正」できるのかという疑問を感じた。悲しいことに人間は(他の動物も植物もだろうが)、己に気持ちよいと思うことを繰り返し繰り返して生きているものではないだろうか。しかも彼の場合、被害者の首を校門に置いたその光景に「美」を見出すという、危ない美意識の持ち主なのだ。いくら「矯正」できたように見えても、そのような人を世間に戻してしまうのはやはり危険なことなのではないかと思えた。今の制度では、人権上それ以上施設に留めることはできないから、制度自体の改革が必要なのだろうと思う。

いずれにしろ、彼はさつじんを犯したことで自分の家族までもが苦しい状況に置かれていることで苦しみ、被害者家族たちの手記を読んでは苦しみもがき…相当反省したようだなぁと思ったのもつかの間、最後には「なぜ人を殺してはいけないのかは分からない。でも、自分が苦しむからやめておけ(概略)」と、まるで振り出しに戻るようなことを書いており、読む者をガタッとさせるのだ。

一方で、彼ほどの重罪を犯した人でも受け入れている奇特な市民の方々もいて、そのような存在が増えれば犯を重ねることは少なくなっていくのだろうなという微かな希望も感じた。ただ、今日のネット社会の中では日本のどこにいても必ず居場所を嗅ぎつけられ、結局はそういった温かい支援者の元も離れざるを得なくなっていく。いつまでもどこまでも逃げるのかということには賛否両論があろうけれど、実際問題としては逃げざるを得なかったのだろうということは理解できないわけではない。その延長上で、外に出なくても収入を得る手段として手記を書いて出版するということも。ただ、それがどれほど被害者の家族の神経を逆なでする行為なのかということは、何度言葉で「ごめんなさい」「申し訳ありません」と書いていたって、実際に出版してしまった以上その気持ちは嘘ではないかといわれても仕方がない。こう言ってはミもフタもないが、なんだかんだ言っても結局一番かわいいのは自分で、自己救済が先決なのだ。そしてそのことを私は非難することはできない。なぜなら、彼のような人にこそできるだけストレスを与えない環境で過ごしてもらわないと、また罪を重ねるのではないかと思ってしまうからだ。
(続きは後日)