ところで、チンさんは

まるでワタシのことなど憶えていなかったが、私にはその車で送ってもらった時の話の中で忘れられない一言がある。何を話していたのかはよく憶えていないのだが、「そう。そんなにジャズが好き?」と聞かれ、「はい!」と答えると、「じゃあ仕事にしない方がいいよ。一番好きなことは仕事にしないほうがいい」と言われたのだ。その言葉はなんだか非常にショックだった。第一、いくらジャズが好きだと言ったって、その世界に入ろうなんてその頃は全く考えていなかったはずなのに、なんで私にそんなことを言うのだろう、と。それに、まるでその世界に入ったのを悔やんでいるかのような言葉ではないか、と。

待てよ、これは才能もないのに好きだというダケでこの世界に入りそうなオッチョコチョイな感じの女のコに、自分たちの聖域を汚されたくないから釘を刺しているのか?あるいは、どんなに才能があって一番好きなものでも、仕事にしてしまうと嫌いになってしまうものなのか…。まだ将来のことをはっきりと決めかねていた頃だったが、この言葉は長い間、なにかの仕事に就こうとする時に決まって胸の中に浮上してくるのだった。

しかし、今回の本を読んで、彼はその頃、あまりにも恵まれた自らの境遇に戸惑いを感じ、なかなか実力に自信が持てなくて苦しんでいたらしいことが分かった。何しろ、日本の最高峰であるナベサダバンドのあと、またまた凄いプーサンバンドを経て彼は渡米するのだが、そこでもアート・ブレイキーだのスタン・ゲッツだの、もの凄いバンドでレギュラーの座をすぐに獲得してしまうのだ。しかも彼は元々はピアノだったのに貞夫さんの勧めでベースに転向し、半年後に華々しくデビューをしたのだった。これは例えば、背泳ぎが得意だと思っていた人が、ある時高名なコーチにクロールに転向させられ、半年でオリンピック出場を果たし、次のオリンピックには表彰台に上った、というくらいの活躍ぶりといえばわかってもらえるだろうか。どんだけ才能あるんだ、という話だ。そんな人でも悩むんですねぇ…。

実をいうと、なんとなくあまり好きではなかったチンさん。演奏はともかく、苦手なタイプの人だと思っていたのだけど、この本を読んで、少なくとも音楽の好みは相当似ていることが分ったし、それらの曲を聴いて自分が漠然と感じていたことの理由が解きほぐされて、なるほど〜そうだったのか!と思うところが結構あった。だいぶチンさんのことが分ってきたような気もする。

もっとも、もう会うこともないかもしれないから、遅いんだけどね。