30年後の後悔

実は最近、人知れず落ち込み気味だったのだが、きっかけは数週間前に見た9.11のNYテロにまつわるテレビ番組だった。あの事件で夫を失った日本人女性が、思い出としてかつての家族の様子を映したビデオ映像を紹介していたのだが、その中で夫が彼女に向かって発した一言が、私が前夫に言われた言葉と同じで、それまで忘れていた30年以上前の不快な思いをにわかに思い出した。それはすぐさま激しい怒りに変わり、その亡くなった夫の方にさえ思わず「そんなことを言うからバチがあたったんだ!」と、思ってはいけないことを思ってしまった。奥さんの方は、特に気にかけている風でもなかったのに。

それをきっかけに、30年かけて順調に記憶が薄れていったと思っていた、離婚を挟んでの前夫とのあれやこれやの不快な思い出が、実は忘れてなどおらず無理やり意識の底に閉じ込めていただけではないかと思われるほど鮮明に思い出されて、自分の感情を揺さぶるのだった。

しかしそれと同時に、これまでは一方的に…いや勿論離婚は片方だけの責任だとは言えないし自分にも反省すべき点は多々あるということはわかってきたつもりだったが、それでも「正義」のようなものは自分にあると思ってきたのだと思う、それが、記憶が鮮明になればなるほど自分の悪かったところもつくづく見えて来て、叶うものなら今更ながら会って謝りたい、せめて遺言状にでもして謝罪を書いておこうか、などとと思ったりもした。

そこでまた犯罪の話になるのだが、人間というのはことほど左様に自己中心にものを考えているもので、己を本当に顧みるのには実に30年以上も要するのだ。これは私が特別に愚かだからだけではないと思う。してみると、残忍な殺人事件などが起きると私は姉たちとよく「死刑だ!」などと口を合わせて来たが、もし死刑の前に充分に己が罪を顧みることなく断罪されるとしたら、本当の意味で被害者は救われることはないのではないか。例のいけだ小学校さつじん事件の犯人もそうだったが、残虐な事件を起こす人というのは、もう自分もどうなってもいい死刑になってもいいからと、破れかぶれでナイフを振り回しているのである。少年えーとてそうだった。逮捕された時、彼は「死刑」になると思っていたらしく、そうならないと知って愕然としたという(真偽のほどは分からない。中学生でも、未成年なら人をころしても死刑にならないことや、二人以上ころさないと死刑にはならないことぐらい分かっていただろうという気もするのだが、ここは一応彼の書いていることを信じてみる)。彼らは世間が思っている以上に自分自身を「厭うべき存在」としてうんざりし、もう死んで楽になりたいと思っているらしいのだ。彼等にとって死刑は、罰であると同時に永遠の安らぎを与えてくれる手段でもある。

確かに被害者家族からすれば、愛する子供や親兄弟が殺されているのに加害者がのうのうと生きているのは腹が立って仕方がないだろう。しかし、死刑を覚悟で人を殺し、裁判で望みどおりに死刑判決が出て、大した期間もなく処刑されるのでは本当の償いにならないのではないか。確かに犯人が死刑になれば社会に出てそれ以上罪を犯す心配がなくなるという安心感はある。また、死んでもらうことで故人が「浮かばれる」気にもなる。だが、加害者は「鬼畜」のまま故人と同じ世界に入ってしまうのだ。あの世で故人がまた酷い目に合わないとも限らない(霊魂は生きている)。

被害者家族にしても、本当の安らぎは加害者の心からの改心でしか得られない筈だ。なぜなら人間は心の一番深いところに慈悲の念を持っており、恨みと同時に赦(ゆる)したいという気持ちも持っているのだと思うから。被害者家族が加害者に会うのを拒むのは、それをどこかで知っているから、赦したくないからだろうと思う。が、赦すことがなければ、自分自身も永遠に救われることがない。そして、赦すことができるほど加害者が己の罪を認めるためには、5年や10年の刑期では到底不十分なのだ。

離婚して30年あまり経ってようやく自分も悪かったと思うことができたことから、死刑制度についてもそんな風に思い至った。まぁ、だから死刑を本当に廃止すべきなのかという結論は、もうちょっと考えてからでないと出ないかも、だけど。またいつか書く時が来ると思う。