若い頃の談志を聴いた。

うわぁ〜、やっぱり凄いや!あれは高校生の頃だったか、「笑点」の司会者としてしか知らなかった談志の古典落語を一度だけテレビで見たことがあった。どんな噺だったかは憶えていないし、その時まで落語をそんなにちゃんと聴いたことはなかったような気もするが、その時は「凄いなこの人!天才っていうんだろうな、こういう人のこと」と舌を巻いたことを憶えている。以来、色んな人の落語をテレビで見たり、新宿周辺に住んでいた頃は2〜3回末広亭にも足を運んだことがあったけれど、どの真打ちも名人も、あの時の談志には到底及ばないと感じたものだ。今のところ、生で聴いて一番面白かったのは志の輔だけれど、生の談志は聴いたことがない。

では、昔聴いた談志の噺のどういうところに感心したのか、具体的には憶えていなかったから、多分「間」だったのかな、と思っていたのだけれど、こうして改めて聴いてみると、とにかくそのスピード感に圧倒される。それは明らかに落語に対する情熱の現れとして感じられ、一種の感動を覚える。正直、一瞬ワタシも落語をやりたい!と思うホドである。やらないけどさ。

そして、今更ながら思うのは、プロフェッショナルって、まずスピードが要求されるものなのだなぁということ。談志の流れるような登場人物同士の会話や、北野武ビートたけしだった頃のようなマシンガントーク大野智のキレッキレでスムージィなダンス、藤原竜也シェイクスピア劇に於ける滑舌のよい科白回しなど、いずれも猛スピードでありながら澱みなく流れていく。プロだなぁ、と思う。

これを、ワレワレのようなフツーの仕事に置き換えると、やはりチンタラチンタラ残業ばかりしているなんてのは論外なのだわね。デキル人の仕事振りを見てみると、「はれっ、いつの間に?」と思うほど、要領よく仕事を終えていらっしゃる。だから、毎日残業ばかりなんてのは、ワタシは仕事ができない人間ですと言ってるようなものだと考えた方がいい。実際、段取り良くやれば、思いがけないほど仕事ってシェイプアップできる部分が多いように思う。ま、そう思って一旦はスピードアップされても、ワタシなんかすぐ元の木阿弥になっちゃうんだけどさ。

話を芸事に戻すけれど、大抵の人はそのようなスピーディな仕事振りを見て「才能」と思うことが多いだろうし、本人もそう思っている場合もあるかも知れないけれど、スピードは多分、訓練でいかようにもアップすることができる。じゃあ、その上を行く芸っていうのはなんだろうなと考えると、やはりそこに「間」というものが現れるのだわね。

例えば歌にしても、素人とプロの一番の差はリズム感、なんていう人がいて、まぁそれはある意味ではそうだと思うけれど、その「リズム感」とは、あくまで符割りを超えた「間」を含むものであるべきで、そう考えるとアップテンポの曲よりも超スローのバラードを歌えるか歌えないかの方が、力量を問われると思う。

まだ、二つ三つだけ、ましてや若い頃の噺だけしかちゃんと聴いていないので、現在の談志の芸がどこまで「間」の妙味を醸し出しているか分からないのだけれど、それがあって初めて「名人」の名を恣にできるのだろうな。いや、既にその称号は手に入れているのかも知れないけれど。

いずれにしろ、トシを重ねる毎に落語に興味が増してくる。日本に生まれて良かった、と思えることの一つだな。