不況の波が押し寄せて

いるなぁ…と感じることがトミに多いこの頃。いつも行ってるニ軒のスーパーが共に撤退するようだ。一軒はいつも客の入りが少なかったから、もう時間の問題だなぁと思っていたけれど、結構混んでいた他方のスーパーも、なんの前触れもなく、いつの間にか別のブランドに変わっていた。ホントに何があるか分からない世の中なんだなぁ。

若い人のシューカツも大変そうだな。正直、自分は仕事が見つからなくて苦労したという憶えがあまりない。いや、よ〜く思い出すと、全くないことはないか。一度は、一旦東京から帰って来た21歳頃。ロクな求人がなくて、田舎ってホントに仕事がないところなんだなぁと呆れた。仕方なく、市内の名ばかりブティックに応募したら、入社試験が「1000円持って買い物に行き、980円のシャツを買いました。おつりは幾らでしょう?」みたいな、バカじゃね?みたいな問題ばかりで呆れたものだが、それができない人もいるからなんだろうなぁ。

でも自分は基本的にベツにキャリア志向ではなく、食べていければなんでもいいやと思っていたし、毎月家に仕送りしなくちゃいけないと思っていたので、とにかく何かしら働かなくてはいけなかった。だから、仕事が何もなくて困ったという思いはあまりしていない。特に今の仕事に就いてからは、というか、福祉職って全体に常に人手不足な傾向があるから、求人がなくて困ったことはないなぁ。

今まで色んな仕事をして来て、いやそれは、給料貰ってただけで「仕事」なんて言えないようなものも含めてだけど、どんな仕事に就いても、そんなに自分にピッタリとしたものはないんだよね。仕事は好きでも、そこの社会に馴染めなかったり、その逆だったり。若い頃は、どこかに自分にぴったりの職場や仕事があるに違いないと、ここでもない、そこでもないと探し続けて来たような気がするけれど、どこに行っても居心地の悪さはあまり消えない。若い頃から、「自分はコレ!」というものを持ってる人もいるけれど、そんなのは一握りの人達だし、フツーの人達は「ここかな?」「ここなら、なんとかイケルかな?」と思ったところで腰を定めて、その仕事を少しずつ手の内に入れて行くしかないのだよね。

それに、自分は若い頃になぜか数学者の森毅先生の、人生を20年ずつに区切って生きる考え方(『人生20年説』)に影響されて、というか、自分に都合の良いように捉えて、まぁ二十歳までは混沌としているからしようがないけれど、二十歳から四十までは自分のために生き、四十から六十は少し世の中に恩返しをする、六十からはまたベツの人生を送る…という風に、おおまかに言うと目論んで来た。しかし今、六十手前になってみると、これからの人生を20年単位ではサスガに考えにくい。せいぜい、10年ずつだろうな。しかも、きっかり六十から始められるかどうかもギモンだけれど、いずれにしろ、そんな風に考えると人生というものもあまり重い気持ちで捉えなくて良くなるのだよね。

…なんて、相変わらず無責任な話です。一番大事なのは、やっぱり「好き」という気持ちを大事にすることなんだろうな、という気はするけれどね。