『十三人の刺客』

思わず「またかい…」と呟いてしまった嵐の新曲CDの案内メール。正直、もう嬉しくも何ともない。過ぎたるは及ばざるが如しという言葉が脳裏にチラつく今日この頃。せめて、シングルは年4枚ぐらいにしてもらえませんか?うちらファンはどんどん出てもそれなりに憶えるけれど、世の中的には次から次に流れて行くだけで、初動40万だの50万枚だのって言われても、流行ってる感はそんなにないんじゃないか?まぁ、嵐だけでなく、ポップス界全体がそんな感じなんだろうけれど。好んで消耗品になっていないか?

昨日、『十三人の刺客』を観に行ったのだけれど、その帰り路にある、割と有名だけれど一度も入ったことのなかったラーメン店に寄った。そしたら、そこのお勧めラーメンの名前が「嵐○○ラーメン」というのだった。なんか最近、そういう店をよく見るような気が。

そこいら中が嵐・嵐な状況を、素直に喜べない自分がいる。ただのへそ曲がりなのか、飽きることが恐いのか、彼らが世の中に飽きられ反感を持たれることが恐いのかは分からないけれど。幸いなことに、ワタシや世の中がどうあれ、彼らはいつも彼らだろうけれど。

本屋にも立ち寄った。来年の手帳を買おうと思ったんだけど、帯に短し襷に長しで結局買わず。ゴローちゃんの演技が気になって『十三人の刺客』を観に行くなんて、ワタシもリッパなジャニヲタもどきではないかと思われ、ジャニーズ分析をやっている雑誌があって買おうかと思ったけど、「サ○ゾー」だったからやめた。

十三人の刺客』は、いくつかハテナな場面、やり過ぎじゃないかと思われるところがあったけど、全体的には面白かった。初っ端から生々しい切腹の場面、しかも演ずるのは今ナニカと話題な内野聖○さん。迫真であった。

暗殺自体はフィクションらしいけれど、ゴローちゃん演ずる暴君(バカ殿とも言うらしいが)松平左兵衛督斉韶というヒトには興味が湧いた。まぁ、生来のサドなのかもだけれど、映画を見る限りでは「退屈」が彼を、とにかく刺激のあるものなら何でも良いという乱行に向かわせたようだ。そしてそれは、彼を暗殺しようとする侍達にとっても同様だった。侍として心技体を磨いても、それを現実で使うチャンスがない退屈な日々。そこに暴君暗殺、世のため人のためという大義がもたらされて発奮することと、最高のエンタテイメントとしての「戦争」に眼を輝かせる暴君とは、退屈からの脱却を目指すという点では同じ。でも、目指すものが違うとこうもニンゲンの価値というか人生の価値は違ってくるものだと言いたかったのかなぁ、と思った。退屈は敵だな、とも。