二日目と三日目は奥松島方面だった

これまで一度も松島には来たことがなかったのだが、さぞや風光明媚なところだったのだろう。進入禁止の立て札のある道もどんどん入って行くと、これ、そんなに大きな津波が来ないとしてもかなり危なくない?と思えるような、住宅の目と鼻の先に海がある。防波堤は勿論、遠くの海の方にも手前の方にもあるが、手前のは1メートルほどの高さのもので、すぐに水がつきそうだった。手前の防波堤のすぐ際に木片が沢山浮かんでおり、もしや御遺体が見つかりやしないかと目を凝らして見たが、見えなかった。なんというか、私たちがやっているような調査も勿論大事なのだろうが、許されるならそれより先に御遺体を探してあげたいような気持ちだった。そんな気持ちにさせる場所のすぐ近くに避難所があって、皆さんが毎日どんな気持ちでこの海を眺めておられるのだろうと思うと、本当にお気の毒としか言いようがない。増して、福島原発の屋内待機圏内でご家族が行方不明になっている方達なんて、毎日、気が狂いそうだろうと思う。

いずれの日も避難所を数カ所廻ったが、前日同様、着いてみると「今朝、別の避難所に移りました」という所が何カ所もあった。勿論、現地の役場関係の人の案内で行くのだし、まさか役所に告げずに勝手に移動されているわけもないのだが、刻々と変わっていく状況の中、どこかで情報が錯綜しているのだろう、全く把握されていないのだった。

それでも当方は「宜しかったらお手伝いさせて下さい」というスタンスであり、予め電話ぐらいは掛けて確認しといて下さいよ、などとは言えない立場なのだった。というのも、役場には色んな支援団体からひっきりなしに支援の申し出があり、それらを調整するのに非常に手間がかかっているようだった。医療系だけに限っても、全国の大学病院や国際的な支援団体の車が見えた。当スタッフの中には以前被災者として受け手の立場で応援を仕切っていた方がいて、その時の調整の苦労を語っておられた。現地の案内の方と待ち合わせても、何十分か待たされるのが常だったが、それはそうした調整で忙殺されている上に、その日の参加スタッフの人数さえ正確に伝わっておらず、その場で訪問先を組み直すことがあったようだった。

そんな状況なので、何カ所も廻って漸く2〜3件という結果なのだった。それに、避難所に入るとすでに医療チームが往診に来ていたり、外人の神父さんだか宣教師さんだかが多分教徒の方たちを伴って「God bless you!」なんて言って慰問に来ていたりとてんやわんや。その上、私たちがやっていた調査と似たような調査を、すでに別の職能団体(?)が済ませたらしい所もあった。

それやこれやで、結構意気込んで参加したにも拘わらず、いささか肩透かしのボランティア体験だったが、気持ちだけはなんだかすごく疲れた。帰ってから何日もこのブログ記事を書く気にもなれなかったのは、そのせいだ。帰りのバスでもあまり眠れなかったのに、すぐに仕事に出たせいもあったのかも知れないけれど。

家に帰ると、アイバちゃんの舞台DVDが届いていた。疲れていたけど、一応最初の方だけ見た。出だしの場面の演技はあまりいいとは思えなかったけど、次の場面のモノローグは、とても良いと思った。でも、残念ながらそれ以上見続ける元気はなかった。いつかまた、じっくり見ようと思う。