とっくに帰って来ています

ボランティアと言ったって、たかが三泊四日です。仕事はそんなに休めない。実際、その三泊の中でも緊急事項があって、同僚に少し面倒を掛けてしまった。それが活動初日の日曜の夜でした。

高速バスで水曜朝に地元に戻り、そのまま出勤して夕方家に帰ると、今回の職能団体より前に申し込んでおいた県の方のボランティア活動の担当者から参加打診の電話があった。来週の出発らしいけれど、サスガに帰宅したばかりでもあり断った。やはり仕事をしながらでは、月に一回が限度だなと思った。それでも翌日には少し疲れが取れていたので、一応職場の管理者に、県からも連絡が来たことを話してみたけれど、「(県からの連絡が)遅いわよねぇ、今頃」という反応だったので諦めた。

で、現地。

土曜は半日仕事をして夜行バスに乗り、日曜の朝6時半頃に仙台に着いたのだが、駅周辺というか市街地はほとんど地震の爪痕が見られなかったことにまずびっくり。よくよく見ると道に2〜3カ所、新しいアスファルトの補修跡があったり少し陥没しているところもあったけれど、本当に目を凝らしてみないと分からないくらい。街の人は何事もなかったかのように、どこにでもある地方都市の普段の顔だし、中には毛皮の襟巻きコートで着飾っている中年婦人もいたりして、アノラックの上下にリュック、キャップにマスク姿という自分など、まるで怪しいニンゲンである。コンビニもちゃんと開いていた。

地元のコーディネーターという人に連絡すると、臨時の事務所になっているところまで、できればすぐタクシーで来て欲しい、とのこと。バスの本数が少なくて、9時近くまで運行していないのだと言う。しかたなくタクシーに乗り、2000円ちょっとのお金を払った。バス代も宿泊代も自分持ちなのだから、正直、ちょっと痛い。ていうか、ボランティアしに行くのにタクシー?っていう気持ちが強かった。

事務所は普段、スポーツジムをやっているような所で、既に数日前から活動を始めている人や私のように今日から活動を始める人、十数人が集まっていた。インスタントコーヒーを出され、早速朝食タイム。私はおにぎりを一個食べた。とあるリーダー的存在らしき方が、「仙台に着いたら、きれいでびっくりしたでしょう?」と話しかけて来られた。やはり皆さん、びっくりだったようだ。軽く自己紹介されていくと、同県人が一人おられたが、遠くは山陰や九州からも来ておられたようだ。

朝食後、活動の本部となっている市内のとあるビルに車で15分ぐらい掛けて移動。そこでオリエンエーションと、その日の活動予定を聞く。出掛ける前の案内で活動開始の時間が午後からになっていたのは、本部から被災地までの移動時間が何時間もかかるからなのだった。この日は石巻港近くの避難所で調査活動を行う予定で、2時間以上かけての移動だ。現地に滞在した三日間を通して、その三分の二、いや、被災地内での避難所から避難所への移動も含めると四分の三ぐらいが移動に費やされ、実際の調査の時間は二時間ちょっとぐらいのものである。

十数人が幾つかのグループに別れて車に乗り込む。私のグループは全員女性だった。私以外は、皆二十代、三十代の若い人達だ。

石巻市内に入ると、まさに全てを破壊された、テレビや雑誌で目にした通りの光景が目に入って来る。所々にスーパーの袋にゴミを詰めて積んであるけれど、いかんせん被害が甚大過ぎて、まるで何も片付いていないように見える。瓦礫は勿論だが、家屋の中や道の途中に急に大きな船が現れたりする。それでも数日前にこの町を訪れていたスタッフに言わせると、だいぶ片付いて来たとのことだった。少なくとも一方通行ではなくなっていたから。すれ違う車の多くは、自衛隊や災害支援のための車だった。

避難所になっているとある学校に着いた。丁度お昼時で、炊き出しを待つ行列が続いていた。米軍兵士達が応援に駆り出されており、被災者女性が持つ救援物資を運ぶのを手伝っていたりした。高校野球で活躍した高校生達も、掃除の手伝いに来ていた。とあるJリーグチームの車もあった。ここでは保存食や飲み水などの救援物資は、既に余り始めていたようだった。

事務所で聞いた時は、調査は二時間で六人ぐらいこなせるという話だったが、私は三人しか聞けなかった。マズいかなぁ…と思いながら集合場所に戻ると、他の人達も二〜三人ずつだった。そもそも、それくらいしか調査の対象になる年齢の人達がおられないこともある。事前に渡された予定表では、調査対象者がもっと沢山いるのかと思っていたが、避難所に着いてみると、実は一昨日、多くの人が他の避難所に行ってしまったとのことだった。また、話を聞き始めると、災害に遭ってから避難所に来るまでの苦労話もあり(津波が来たので山に登り、そこから近くの小学校で飲まず喰わずで一週間過ごし、一旦親戚の家に身を寄せてから避難所に来られた八十代の方もおられた!)、家族に被害がなかったかなどを聞く段になると、やはり涙ぐまれて話を進めづらくなったりして、そうそうスイスイとこなせるものではなかった。

午後三時近くには避難所を後にして仙台の本部に戻るのだが、帰りの方が道が混んでいて、相当時間が掛かった。戻って報告の会議等をして、終わったのが八時頃だったか。晩ご飯はレトルトかなと思っていたのだが、既に何日もレトルトで過ごしている方も多く、今日はみんなでファミレスにでも行こうということになった。仙台市内は、時間制限はあるものの、色んなお店が開いているのだ。
朝はおにぎり一個、昼はパン一個だけだったせいか、あのファミレスの食事をあんなに美味しく感じたことはなかった。

それから事務所に戻ってそれぞれ寝袋で寝たのだが、仙台までの夜行バスの中であまり眠れなかった私は、十一時頃には入眠できた。