現地での移動車の中では

ずっと民放のラジオが掛かっていて、どの番組でもどの人もどの歌も励ましたり、「一人じゃないよ」的なことを言っていたけれど、正直、とても違和感があった。出掛ける前にも歌番組で「元気の出る歌」などを聞いた時にも、まだそんな段階じゃないんじゃないかと思っていたけど、現地に入ってもその思いは拭えなかった。

少なくとも私が接した避難所の人達は、まだ涙を流して泣くことさえできていないのではないか、と思った。ジェノグラム作成の途中で泣き出しそうになられて、それ以上聞くのを打ち切ったことがあったけれど、本当は多分、避難所の人達全員で一度思いっきり泣いてもらう機会を作った方が良いのでは、とすら思ったりした。悲しみを内包したまま、今なにをすれば良いか分からず、とりあえず仮設住宅に当たればいいか、と思っている人が多かったような気がする。ここの生活で不自由なことはないかと尋ねても、もう避難所生活に慣れてしまっていて、さぁ特には…という人が多くてびっくりした。手洗いの水が充分使えないようなところでさえそうなのだ。避難所から避難所に何度も移っている人もおり、あそこよりはここがいい、という感じなのかも知れないが、まだご自分の置かれた状況をきちんと受け止めかねているのかも知れないという気がした。

今回私が訪問した所よりもっと悲惨だという南三陸方面を廻ったスタッフの話によると、震災以来ずっと施設に留まって高齢者介護に当たっている保健師さんがいたり、その日ようやく水道が復旧し24日振りに手を洗ったと言う介護支援専門員が居たりして、「頑張って!って言われるけど、いったい何を頑張ればいいの?」と、まだ励ましなど受け入れられない様子で、スタッフも言葉を失ったと言う。その場は堪えたけど、戻って来てから泣いていた女性スタッフも何人かいた。もう救援物資が余っているところと、ようやく入ったばかりのところ(もしかしたらまだ入っていないところも?)とでは、励ましの受け止め方にもタイムラグがあるのは当然のことだ。

そうは言っても、できるところからもう復興活動を始めなくてはならない。最終日の会議を終えて20時過ぎに仙台駅にバスで着くと、多くの店はすでに閉店しており、駅の中のコンビニと周辺の居酒屋ぐらいしか営業していなかった。駅の隣の雑居ビルの居酒屋やイタリアン料理の店なども開いていたが、一人で居酒屋にはサスガに入りにくいし、脂っこいものも食べたくなかったので、一軒だけ開いていた鮨屋に入った。贅沢かなとは思ったが、これから復興に向けて東北地方には沢山稼いでもらわなくてはいけないのだ、と思い直した。一人前で注文したが、お品書きには多くの「今日の欠品」があった。普段の半分以下の品揃えである。「やっぱり、普段は三陸沖から仕入れておられるんですか?」と若い鮨職人さんに尋ねると、そうなんですよねぇ、と少し困った顔で返事をされた。

地元から仙台までバスが出ているのを知ったのは去年で、実は今年の正月に行こうかな、とも思っていた。それがこんな形で実現しようとは夢にも思わなかったが、いつかまた訪れて、本来のこの街を味わってみたい。そう思った。

自宅に戻った翌日の深夜、震度6度強の余震が宮城で起きた。これまで大自然に対しては畏敬や畏怖の念しか抱いたことがなかった私だったが、初めて敵意のようなものを感じて、心の中で「畜生!」と叫びながら床に就いた。やはり実際に現地の人達の顔を見たり、被害の大きさを目の当たりにしたことで、その土地に対する思いは深くなっていたようだ。