くわ〜っ、石原真理子も変わってるけど

玉置ってヒトも相当変わってんな。薬師丸ひろ子ちゃんファンだったワタシ(?)としては、なんだかイタタマレナイ気持ちですな。私が高倉健なら(って、どういう例えだ)、玉置をブン殴ってるんじゃないか。

復縁ねぇ…あり得ないっつーの。結婚相手にしろ恋愛相手にしろ、別れたらそれっきりっていうか、別れるワケがあったから別れたんだろうに。

ちょっと話は逸れるけれど、今更ながら自分は相当ネクラっていうか、かなりマイナス思考のニンゲンだなと最近自覚するようになった。たとえばここに十年という年月があって、その内、九年間は幸せで最後の一年だけ辛い事があったとすると、憶えているのは最後の一年だけだったりする。う〜ん、でも大抵の人はそうなのかな。例えがまた悪いかも知れないけれど、競馬の騎手なんか、どんな重賞を勝った喜びより負けた時の方が忘れられないっていうけど、そんな感じ?やっぱり、ちょっと違うか。でも、ふとした時に胸をよぎるのは、嫌な思い出、ちょっとした失敗、つまらない拘り…そんなことばかりだ。

それで、これからはもう心をいつも「無」にして、何も考えず何も思い出さないとことにしよう、と昨日こころに誓った。そうすると、まぁ今のところだけど、結構快適に過ごせるのよね。ちょっと、このままで行ったらボケるのが心配だったりもするけれど。そうそう心を「無」にしていたら、ねぇ?

そこでまた思ったのは、ワタシのように善良な市民(?)ですらそうなのに、大罪を犯した人なんか一体どんな気持ちで生きているのかね、ってこと。もし、後悔の気持ちがあるのなら毎日が地獄だろうけれど、反対に、故意にシャットアウトして、どんな大罪だろうがそんなものは知らないよ、憶えてないよ、で過ごすことも出来るわけで。

そう考えると、殺人を犯した人、特に酷く残忍な殺し方をしたような人に、「人間的な感情が戻る」ことを目的として無期懲役にしたりすることに、そんなに意味があるのかな、と思う。だってね、人間ってどんな場合でも、自分だけは幸せになりたいって思うもんなんじゃないかしら。苦しみがあるんだったら、そこから逃れたいって。死刑を言い渡されてもおかしくないような重罪を犯した人の内、本当に後悔する人は、苦しいから自殺したいとか死刑にして欲しいって思うだろうし、そう思わない人は、やっぱり自分の中の「臭い物に蓋」をして、何の反省もなく、ささやかな心の幸せを求めて生きていくんじゃないだろうか。いや、別にワタシ裁判員に選ばれたわけじゃないんだけど、そういうことを考えることって多いかも。死刑って、あった方がいいのかどうか、とか。

それで、また彼らの復縁の話に戻ると、まぁ、元々何か心残りがあって別れたから、ヨリを戻すんだろうな。男が女をなぐっておいて、まぁ、殴りたくなるような女だったとしても(笑)、まともな人間なら心残りがあるに決まっている。逆に言えば、復縁までの24年間は、何の心残りもないくらいに幸せだったということだろう。そうでもないと浮かばれないよ、私のひろ子ちゃんが(笑)。